林の上に降る雪は

まだしめやかになってない

思想史つづき ~おまえはもう信仰している~

近代のすべての世界観の根底に、いわゆる自然法則は自然現象の説明であるという幻想が横たわっている。こうして、古代の人々が神と運命の前でそうしたように、人々は自然法則を何か侵すべからざるものとして、その地点で立ち止まる。そしてむろん、両者とも正しく、また、両者ともまちがっている。しかし、現代の体系ではあたかもすべてが説明済であるかのように思われているのに対し、古代の人々はそこにはっきりとした限界を認めていた。その分、古代の人々の方がより明晰であった。(ウィトゲンシュタイン論理哲学論考』§6.371,§6.372)

僕は長い間、宗教を信じる人達のことを心の底から軽蔑しながら生きてきたような気がする。
ニーチェが「神は死んだ」と言ってからずいぶん時は流れ、科学技術は進歩し、聖書の矛盾は暴露され、心霊現象のトリックも解明され、ムハンマドはただの側頭葉てんかん患者と判明してるらしいのに、なぜ宗教を信じる人がいまだに存在しているのか、全く理解できなかった。

特に中学生の頃の無神論者気取りが一番ひどかったような気がする。くそ寒いなか初詣に行く意味がわからなかったし、くそ暑い盆に墓参りする意味がわからなかったし、わざわざ人骨を丁重に埋める意味もその人骨に手を合わせて目を瞑る意味もわからなかった(実は今も半分わからない)。ただ太陽を地球がちょうど一周しただけのことで誕生日とか記念日とかを祝う意味もよくわからなかった。でも僕はとにかく家族の和を乱したくなくて、オカルトな行事にも嫌々付き合っていた。

でも、高校生になると、僕はやや態度を軟化させた。死後の世界が存在しないとしても、宗教的な行事は生きている人間にとって大切なものではないか、みたいなことを考えるようになった。
墓石や人骨に対して無意味に手を合わせて目をつぶっているときも、中学生の頃は、「なんてバカバカしいオカルト行事なんだ!」と思っていたのが、高校生の頃は「まぁ神や霊魂が存在しないのは知ってるけど、それはともかく、今後の抱負を自分自身に対して誓うための有意義な儀式としてポジティブに捉えよう!」と考えるようになった。

僕は昔から、死にたくないという気持ちだけは強くて、いつか必ず死ぬにしても、できる限り死を遅らせるために健康で文化的なそこそこの生活を送る必要があると考えていたので、まともな人生のレールから脱線しないための最低限の努力はしてきたつもりだった。
ただ、僕を突き動かしてきた動機は、死にたくないとか、仲間はずれになりたくないとか、親の期待を裏切りたくないとか、脱線したくないとか、いわば後ろ向きのモチベーションばかりで、たとえば「医者になるために勉強する」みたいな前向きなモチベーションは皆無で、自分が大人になるというイメージを全く持てないまま適当に進路を選んできたんだけど、その弊害が露骨に現れ始めたのが大学の頃で、主体的に勉強したいという気持ちが全くなかったし、大学を出た後に自分がどうなるのか、何のイメージもなくて、でも日々の課題はこなさなきゃいけないし、人とまともに話せないし、人とまともに話せないのに高校の友達になんとなく連れられて入ったサークルで無意味に苦しんだりして、常に途方に暮れていた。
その頃は哲学的なことを考える余裕もほとんどなかったけど、唯一、「哲学的な何か、あと科学とか」というサイトを見つけて一人で興奮しながら読んでいたことがあった。量子力学の二重スリット実験とか、不完全性定理とか、自己同一性の問題とか、意識やクオリアの問題とかが本当に面白おかしく説明されてて、目をハート型にしながら読んでた記憶がある。特に二重スリット実験が本当に面白いと思って、自分でも量子論の本を一冊買って読んだくらいだった。これだけは純粋に主体的な動機による行動だったような気もする。

苦しみは増大する一方だったけど、表面的に見れば、僕の人生は順調にいっているように見えたかもしれない。就職先も例のごとく適当に決めたけど、一応、自分で選択した道にある程度は納得しているつもりだった。でも、就職すると苦しみは更に増した。中学一年生のときの担任の先生に「きみには人として大事な何かが足りない」と言われたことを思い出した。46日目にして橘屋の仕事を投げ出した大愚良寛のごとく、今すぐ仕事辞めたい大人の世界で僕はやっていけないニートになりたい株の配当金とかで暮らしたい等とわりと真剣に考えてはみたけど、僕にとって仕事を辞めるということは、これまで息も絶え絶えに重ねてきた努力を自らの手で全部投げ捨てることと同義だと思ったので、そう簡単には辞めることもできずゾンビのように働いていた時期、近所の本屋でたまたま目に留まったのが『嫌われる勇気』というアドラー心理学の本だった。まさに、今までの僕に決定的に足りなかったのは「嫌われる勇気」だったのではないか?と思って、すぐにその本を買って読んだ。面白かった。
でも、いくつか納得できないこともあった。
例えば、
「人間は“ついカッと”なって怒るのではなく、“大声を出して相手を支配しようとする”というような目的のために、怒りという感情を捏造しているのだ」
みたいなことが書いてあって、さすがに、そんな複雑な目的から怒りのような単純な感情が作られるなんてあり得ないんじゃないか?と疑問に思ったので、脳のなかで感情がどのように産み出されるのかをネットで調べたみたら、わりとすぐ、アドラーの主張には科学的根拠がないということがわかったんだけど、それはさておき、脳みその仕組みについて調べること自体がだんだん楽しくなってきて、他にもいろいろ調べてみることにした。

まず、脳神経科学者 ダマシオの話が面白かった("エリオット"という患者の話、ソマティック・マーカー仮説など)。
ダマシオの説は、大雑把に言えば、
「世間では、"感情が理性的な判断を邪魔している"みたいなことが言われがちだけど、実は、感情の働きがあるからこそ、理性的な判断を下すことができるのである」
みたいな感じだったんだけど、僕はそれまで、感情と理性は二律背反だと単純に考えてたから結構びっくりした。
ダマシオよりもっと衝撃的だったのは、リベットの自由意志の実験だった。
「手を動かそうと自分が意志する0.5秒くらい前に、その行為の準備電位が脳に生じている」という結果をわざわざ実験で示されなくたって、意志が物理法則を無視して突発的に出現するわけじゃあるまいし、脳内のニューロンの働きの結果として意志が発現するのは当然の事実だよね……と思うようになったのはこの実験を知った後のことで、それ以前は、その当然の事実について真剣に考えたことが一度もなかった。僕は、自分のまぬけさに愕然とした。あれだけ神や仏や霊魂のようなオカルトを否定していた僕が、自由意志というオカルトを盲信していたなんてめちゃくちゃ格好悪いじゃん、と思って反省した。
あと、ラマチャンドランの『脳のなかの幽霊』が抜群に面白かった(分離脳、幻肢痛、カプグラ症候群などなど)。自分が素朴に信じていたことが次から次へと根底から覆されて震えた。
それから、「意識のハードプロブレム」という哲学の問題を何とかして解けないだろうかと思うようになった。この難問はいまだ解決されておらず、現在も哲学者によって議論されているらしいけど、もしこの難問を僕が解いたらすごくない?!みたいな能天気なことを考えた。

ところで、中学生の頃、他人にも意識は存在するのだろうか?と疑問に思ったことがあった。
「自分以外の他人にも意識が本当にあるのだろうか? 自分以外の他人は全員、笑ったり泣いたり怒ったりする素振りを見せてはいるけれども、実は何も感じない肉の塊なんじゃないか?」
まぁ中学生にはありがちなことなのかもしれないけど、僕は真剣だった。
その疑問の解消に至るまで、次のような思考の過程を辿った。
「もし、自分以外全員ロボット説が正しいと仮定する。すると、世界でたったひとり、僕だけに主観的な意識がある、ということになるけど、もし本当にそうだとしたら、なぜ僕なのか。世界にひとつだけ特別に存在しているこの僕が、なぜこんなに恥の多い生涯を送らなければならなかったのか。なぜバラ色の人生じゃないのか。せめて普通の人間に生まれたかった。どう考えてもおかしい。僕がそんなに特別な人間であるはずがない。やっぱり、僕にだけ主観的な意識があるのではなく、他人にも僕と同じような意識があると考えなければ、辻褄があわない」
という意味不明な理屈で自分を納得させた記憶がある。
この謎の理屈は、「僕にだけは絶対確実に主観的な意識がある」というのが大前提になっていたように思われるけど、もちろん、この前提には何の根拠もないし、逆に、主観的な意識がいい加減で不確かであることを示す証拠の方はたくさんあると思う(分離脳患者の実験とか)。

もし主観的な意識とかクオリアが存在しないとしたら、意識のハードプロブレムは解消されるだろう。だから、意識が存在しないことを証明するのは大事なことだ、みたいなことを考えながら、ある日なんとなく梅田の紀伊國屋をうろうろしてたとき、一冊の本のタイトルが目に飛び込んできた。ずばり、『なぜ意識は実在しないのか 』。これだ! と思って、それがきっかけで永井均という哲学者の書いた本を何冊か読むようになって、でもそれだけでは満足できなくて、他にもいろいろ手を出すようになって、気づいたら哲学にハマっていた。哲学は素晴らしいと思った。僕はそれまで、まともに生きていくなら無意味に哲学的なことを考えてはいけないと思ってたけど、哲学者という人種は、あえてそういう無意味な問題を徹底的に考えて、それによって歴史に名を残している。そんな裏技があったなんて!と思った。
とりあえず、僕は哲学についてほとんど無知だったので、専門的なことを深く掘り下げる前に、まずは広く浅く調べてみることにした(例えば、デモクリトスの原子論やヘラクレイトスの万物流転はなかなかいい線いってるなぁとか、ソクラテスの死に方は格好いいとか、プラトンよりアリストテレスの方がなんとなく理系っぽくて好きとか、スピノザは東洋哲学っぽくて好きとか、デカルトの神の存在証明はめちゃくちゃだなとか、因果律に必然性がないなんてヒュームさんそれを言っちゃお仕舞いでしょとか、ルソーは子供を孤児院送りにしすぎだろとか、カントの純粋理性批判はすごいと思うけどたぶん一生読まないだろうなとか、ハイデガーの僕と同じように死ぬの怖かったのかなとか、ニーチェってこんなに悲惨な人生だったのかとか、サルトルはなんかお洒落な気がするとか、ウィトゲンシュタインは目がイってて好きとか、ブッダの縁起は意外といい線いってるかもとか、孔子より老荘思想の方が好きだなとか、親鸞の他力本願って昔はなんだこりゃって思ってたけどもしかして親鸞は自由意志がないことを悟って悩んでたのかもとか)。
で、ざっと調べた末に、誰を深く掘り下げたかというと、実はいまだにほぼ誰も詳しく調べてないような気もする(強いて言うならウィトゲンシュタインかも)。
ところで、自称無神論者だった僕は、西洋哲学の入門書を読んでいて、「意外と神を信じている人多いな」と思わずにはいられなかった。次第に、「逆に、皆なんでそんなに神を信じてるんだろう?」と興味が湧いてきて、というかキリスト教を理解しないと西洋哲学を理解できない気がしてきて、キリスト教についてもネットでいろいろ調べてみたら、調べるのが楽しくなってきてしまって、ユダヤ教からキリスト教がどんな風に生まれたのか、科学や哲学に宗教がどのように関わってきたのか、一方その頃仏教はどんな風に生まれて伝わっていったのか、中国や日本にどんな哲学があって西洋哲学とはどの辺が違ってどの辺が似てるのか、ところで哲学はさておき最新の科学では世界をどのように捉えているのか、人間は進化の過程でどのように意識を獲得してきたのか、なぜ宇宙は存在するのか、相対論や量子論の不思議等々、とにかく知りたいことが芋づる式に増えていった。テストで良い点数をとるのが楽しいと思ったことはあったけど、勉強すること自体が楽しいと思ったのはほとんど生まれて初めてだったような気がした。なぜ学生の頃にこういうテンションで勉強することができなかったのかと思った。

物理主義一元論でゴリ押ししても、意識の謎を解くには何かが決定的に足りないと思えるのは、おそらく、「自己言及」と深い関係があるんじゃないかと思っていた。
そこで今度は、自己言及のパラドックスと関連がありそうなゲーデル不完全性定理も猛烈に気になり始めて、とりあえず『ゲーデルエッシャー、バッハ』を読むことにした。結局、不完全性定理は僕には難しすぎてよくわからなかったけど、読んでいてすごく楽しかった。こんなにユーモアとセンスに満ち溢れた本が他にあるだろうかと思った(ちなみに著者のホフスタッターは、意識のハードプロブレムを提唱したチャーマーズの先生だったらしい)。

僕はなんとなく、「自己言及」という言葉の響きが好きだった。
僕は昔から、家族や友達も含め他人とまともに会話したことが一度もなかった気がするけど、そのかわり、自分vs自分でいつも真剣に議論して少しずつ自分の思想を発展させてきたという謎の自信があった。僕ほど自己言及に自己言及を重ねてレベルアップしてきた人間はそうはいないだろう、となぜか思い込んでいた。
でも、ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』§3.333の、「関数は自分自身の引数になれない」の部分を何度目かに読んでいるときに、「あ! ここ、ややこしい式をいろいろ使ってるけど、要は、厳密に自己言及をすることはそもそも無理ってことを言ってるのか! 確かに! ウィトゲンシュタインすげえ!」と思った。
自己言及が不可能であるなら、自己言及のパラドックスは起こらない。その代わり、唯一不変の自分というものを完全に否定することになる。毎秒毎瞬自分が死んで生まれてを繰り返していると考えることもできる。
「僕らはみんな生きている」ということ自体がオカルトな信仰だったのかもしれないという気がしてきた。「未だ生を知らず、焉くんぞ死を知らん 」の意味もなんとなくわかった気がした。

それから、『哲学探究』での、指差しによる直示的定義の難しさや、規則のパラドックスの深刻さについて考えた。
確かに、よくよく考えてみれば、

  • 「→」がなぜ「右」を意味するのか
  • 「68+57」の答えは、なぜ「5」ではなく「125」になるのか

ってことに根拠は全くない。
でも、根拠はないけど、とにかくこのパラドックスを乗り越えなければ何もかもめちゃくちゃになってしまう。
たとえば、

  • 「その醤油とって」と言ってもどの醤油なのかわからないし、それ以前に醤油がなんなのかを説明できなくなる。こういう直示的な指差しが使えなかったら、意志疎通が無理になる。
  • みんなで議論して決めた規則をどんな風にでも勝手に解釈してめちゃくちゃに運用できる。
  • 言葉の使い方の規則に、どんな行為でも当てはめることができるので、もはや言葉自体が使い物にならなくなってしまう。意志疎通どころか、思考そのものが無意味になる。

でも、ウィトゲンシュタインは、「規則のパラドックスは誤解である」とはっきり書いている。でも僕には、なぜ規則のパラドックスが誤解になるのか、その説明と思われる箇所を読んでも、しばらくの間はピンとこなかったんだけど、あるとき、
「世界はあるがままに存在していて、物事は起こるように起こるだけだから、人間が自分の意志によって規則に従ったり従わなかったりという選択を意図的に行うことが根本的に不可能ってことなのかも…」
と考えるようになった。
まず理不尽な世界があって、後付けで、僕の意識や感覚がまるで金魚の糞みたいにくっついているだけ。だから、人間の意識や感覚は、人間がコントロールできるものではないし、努力するために努力することや、意志を意志することは不可能だと思った。
「人間は、人間の意識や感覚に浮き上がってくる以前の何らかの規則、あるいは混沌とした世界そのものに、根っこから縛られている」ということは、侵しがたく決定的な事実だと思われる。だから、人間の自由を固く信じて疑わない無神論者よりも、単純に神を信じて帰依している人の方が、身の程を知っているんじゃないか。……みたいなことを考え始めた僕は、なんとなく哲学に飽きてきて、今度は小説をよく読むようになった。昔よりも守備範囲はかなり広くなって、不合理なもの・理不尽なもの・バッドエンドなものでも全然受け入れられるようになった、というかむしろそっちの方が心に響くようになってしまった。

ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』は、高校生の頃、ちょっと背伸びして難しい本を読もうと思って、たまたま実家にあったやつを読んだら、何が面白いのかさっぱりわからなくて上巻で断念した記憶があるんだけど、大人になって哲学をかじった後に読んだら、めちゃくちゃ面白く感じた。ドストエフスキーの懐の深さに圧倒された。ひとりの人間の頭のなかに、こんなにも矛盾した意思がめちゃくちゃに混在していることに震えた。あと、この長~い小説をウィトゲンシュタインはなんと50回も読んだという逸話があるけど、読んでいてウィトゲンシュタインっぽいと感じる箇所が結構あって、「ここらへん、ウィトゲンシュタインはどんな気持ちで読んでたんだろう…」みたいなことを妄想しながら読むのがすき。

なぜか、子供の頃にあんなに強烈だった「死の恐怖」を思い出せなくなってしまった。
たぶん、死ぬのが怖かったのは、自分の存在が消滅することを恐れていたからだと思うけど、よくよく考えてみれば、もともと僕が失うものは何もない。僕は何も持っていない。裸で生まれ裸で死ぬ。というか、裸の体すら、自分のものでない。心も自分のものでない。というか、心がない。自分がない。失うべき自分がない。何も失いようがない。
……という理屈は、今、後付けで足してみただけで、本当のところは、何で死ぬのが怖くなくなったのか、自分でもよく分からない。単に子供の頃よりも体が強くなって死から遠くなったから死の恐怖を感じないとか、案外そういうつまらない理由なのかもしれない。(こんなふうに理由を後付けでどんどん付け足していくのはよくない癖だと思う)
というか、そもそも、幼い頃感じていた「死の恐怖」というのも、後付けの理由だったような気がする(後付けでない理由は存在しないのかもしれないけど)。たぶん、6歳くらいの頃、ちょうど自我が芽生え始めた頃、たまたま何らかの恐怖の感情が巻きおこって、その感情に、後付けで「死の恐怖」という理由が左脳の働きによってくっつけられただけなんじゃないのか、という気もする。


上記に書いたような、哲学的あるいは宗教的なことを、僕は100%信じているわけではない。
自由意志はないとか、意識は存在しないとか、因果律は幻想とか、哲学は無意味とか、語り得ぬものについては沈黙しなければならないとか、世界はあるがままにあるとか、何もかもどうしようもないとか、人間は自力で救われることはないとか、……そんな無意味なことをあえて言う必要ある?!という意思も、僕のなかに半分くらいは残っているような気もする。